私の体は音楽と映画と旅でできている

タイトルのまんまのブログ。中年主婦が映画、音楽、旅行について思いつくままに書いてます。

【書評】生きながら火に焼かれて

私は80年代、U2を通じてアムネスティの存在を知り、天安門事件が起こった時には中国政府に抗議のハガキを送るというアクションに参加したものでした。残念ながら経済の自由化とは裏腹に中国は国民に対して締め付けがより強くなり、人権に関しては後退してるとしか思えません。

ウイグルでは、イスラム教徒らしい生活を禁じられているというから酷いものです。
一方でイスラムの教えから逸脱すれば逮捕、下手すれば殺される社会もいまだ存在します。

私は田嶋陽子のように「何でも男が悪い」と決め付けるような過激な女性解放運動は苦手ですが、女性というだけで基本的人権を奪われたり、肉体的精神的に傷つけられる事が当たり前とされている社会に対しては猛烈に抗議します。

アフリカの女性性器切除<FGM>や、持参金を巡る争いの果て、花嫁が殺されてしまう事件が後を絶たないインド。 そして、恋をして性交渉をもってしまったというだけで、家族に焼き殺される一部のイスラム社会。
これらが伝統だから仕方がないとは日本人のほとんど誰もが思わないでしょう。 こういう事を伝統の一言で片付けてしまっていいはずがありません。悪い伝統、というか因習はどんどん壊していいんです。

イランではこの情報化社会で女性達は、イスラム革命後の抑圧からの反動から抵抗し始め、女性の自立や自由をテーマにした映画が沢山作られています。
恥じらいとか貞操観念という言葉が死語となりつつあり、援助交際と名付けられた売春が横行する日本の性のモラルの低下も嘆かわしいばかりですが、婚前交渉や婚外交渉をしただけで殺される社会は行き過ぎです。
それも女性ばかりが罰されるのです。厳格なイスラム社会では淫らな女性はある程度批判されても仕方がないとは思いますが、せいぜい糾弾に留めるべきであり、死刑に値するほどの罪だとは思えません。

異文化は尊重せねばなりませんが、それは人間として最低限度の人権をわきまえたうえでのことと思います。
独裁者フセインは、色々問題のある強権的独裁者でしたが、イスラム教のしがらみから解放されていただけあって女性を尊重する人で(あくまで自分に逆らわない事が前提ですが)『名誉の殺人』は国家にとって不名誉な事だと言ってのけました。
彼はアルカイダとは何の関係もないどころか、むしろ原理主義嫌いで彼のいる間はアルカイダを完全に排除していたわけです。 アメリカは西洋にとって、あるいは女性にとって都合のいい人物を排除してしまったわけです。 もしも、イラク原理主義政権が誕生としたとしたらその最大の功績はブッシュということになりますね。

 

生きながら火に焼かれて

生きながら火に焼かれて

 

 

『生きながら火に焼かれて』は著者が受けたイスラム戒律による徹底した女性差別と掟破りに対する厳しい処刑体験を回想談として綴ったもの。 著者が育った地域(トランスヨルダンと思われる)は徹底した男尊女卑の世界で、息子が跡継ぎとして学校教育を受ける等大事にされるのに対し、娘は家畜同然として扱われます。

学校にも行けず、奴隷同然に毎日家事や家畜の世話に明け暮れ、恋愛など無縁のまま親の決めた男と結婚し、家にいる時は父親に、そして結婚後は夫に服従を強いられます。

著者は、そういう環境である若者に恋をし、性交渉を持ってしまいます。 たった一度の交渉で妊娠したスアドは「家の恥」として、親の了承の下、義理の兄に体に火をつけられます。同姓の母親さえそれが当然の事と思っています。味方は姉だけ。

奇跡的に一命をとりとめた彼女はヨーロッパの人権団体に救われ、スイスへと渡ります。そこで仕事を見つけ、ほんとに彼女を理解してくれる優しい男性と出会い結婚します。 初恋の男との間に生まれた息子は養子に出さざるを得なかったのですが、夫の間に娘をもうけ、幸せな日々を送る彼女を苦しめるのは体に残る火傷の跡。

この跡を見るたびに、過去の記憶が蘇ってきて彼女を苦しめます。そこで彼女を助けた団体が自分の体験を本に綴って世界の人にこのような非人道的な事がある事を知ってもらってはどうかと 持ちかけます。

それは彼女にとって忘れてしまいたい過去と真正面から向き合う事になり、辛いことでしたが、この本で書かれているような事実があることを、多くの方に知ってもらう事で、自分のような目に合う女性を世界からなくす一助になればと思い、決意します。

このような事例に対して世の中の認知度が低いのは、家庭内の事として警察も政府もほぼ黙認状態だったからですが、家族による「名誉の殺人」から奇跡的に逃れたスアドのような女性が声を上げ始めた事で世界中が知るところとなり、政府も放っておけなくなりました。

このような理不尽な暴力から女性を解き放つために、外部からの圧力もある程度は必要で、国連などの議題に挙げ、言論で訴えていくべきでしょう。