私の体は音楽と映画と旅でできている

タイトルのまんまのブログ。中年主婦が映画、音楽、旅行について思いつくままに書いてます。

炎のランナー

大河ドラマ『いだてん』の主人公、金栗四三が最後に出場したのが1924年のパリ・オリンピック。
そのパリ・オリンピックを舞台にしていた作品が1981年度のアカデミー賞を受賞した『炎のランナー』です。

 

 

 今思えばこの映画に惹かれたのはあの流麗なヴァンゲリスの旋律と作品全体から漂う英国独特の香気と格調の高さに負うものが大きかったのではないかと思う。
まず冒頭で海辺を走る神々しいまでに誇り高い青年たちのトラディショナルな美しさに惹き付けられずにはいられない。
灰色の雲が重くたれこめた空、地中海の抜けるようなコバルト・ブルーの海とは明らかに違う北国らしい暗い海の色が英国の風土がまた彼らを引き立てている。 
映画は「絵」だなあ、と思わせるシーンだが、上品な包装紙でありとあらゆる英国らしいものをパッケージしたようなあの雰囲気が伝統を持たない新興国アメリカのコンプレックスを刺激したのもわかるような気がする。
普段、イギリスはアメリカを成上がり者と見下し、アメリカはアメリカで英国を気取った斜陽の帝国とバカにする。同類憎悪とでもいうのだろうか。その反発は似た民族であるがゆえに相当なものらしい。
しかし、伝統と風格というものは建国200年余りのモザイク国家アメリカが逆立ちしても持ち得ないものであり、こうも堂々とブリティッシュ・トラッドを前面に出されるといつもの反発心も消えうせ、ひれ伏すしかないのだ。

 ストーリーは、1924年のパリ・オリンピックで金メダルを獲得した二人のイギリス青年を対比させながら、ひらすら夢を追い求めていく彼らの青春を描くといったものだが、そこはイギリス、単純なスポ根ものとは一線を画している。

 ユダヤの血をひいているがゆえに、いわれなき差別と偏見を受けていたハロルド・エイブラハムズはいわば周囲に自分を認めさせるためにオリンピックに参加する。
一方、宣教師の家に生まれたエリック・リデルは神のため、信仰のために走る。

 オリンピックはいわば戦争の代理的行為といった側面があり、どうしてもそこに国威発揚といった政治的な思惑が絡んでしまうが(36年のベルリン・オリンピックや2010年の北京オリンピックはその典型)、エイブラハムズとリデルの中からは国家を背負っているという意識があまり感じられない。ひたすら速く走りたいというオリンピックの本来の精神がよく現れている。そのひたむきな姿が世界中の感動を呼んだのだと思う。

 中でも神に人生を捧げ、国家にさえたて突いてみせる宣教師ランナー、エリック・リデルの決して自分の信念を曲げようとはしない頑固一徹な生き方にはもう脱帽という他ない。
 彼はスコットランド人である。長い間英国に蹂躙されてきたスコットランド人のナショナリズムといったら、我々日本人の認識をはるかに凌駕していて、凡百の映画ならそこにイングランドに対するスコットランド人の対抗意識といったものを加味するところだが、リデルからはスコットランドナショナリズムはまったくと言っていいほど伝わってこない。その代わり彼の神や信仰への想いを強調する事でイングランドスコットランドの確執といったものを克服しようと試みているのかもしれない。

 彼の信仰は徹底していて、子供がサッカーをしているだけで「今日は安息日だろ」と戒め、レースの日が日曜日と重なると、イギリス皇太子がなだめようと決して出場を承知しようとしない頑固さである。 
「日曜日は安息日だから走らない」というセリフは伝説になったほどだが、こういう考え方は当時の私には新鮮だった。

 エリック・リデルを演じたイアン・チャールストンは、実はゲイでのちにエイズでこの世を去った。この役のために聖書を読破したそうだが、ゲイでありながら臆することなく宣教師を演じてみせた彼の役者魂には脱帽だ。後に教会の方からこの映画にクレームつかなかったのかしらという素朴な疑問が沸いてくるが、まあ死んだ人を責めるわけにもいかないだろう。
この映画はスポーツを通して魂の至高を謳いあげたもの。

エイブラハムズもブラット・デイビス演じるアメリカ人シュルツもE・リデルを意識し過ぎといった感があるが、リデルは決して脇を見ていない。彼の頭の中にあるのは「勝つこと」ではなく、神への愛と己の精神を鍛えることだけ。ユダヤ人差別と闘うためというまことにパーソナルなある意味で俗っぽい動機で走るエイブラハムズが、そんな純粋なリデルに一歩抜かれているというのが象徴的ではないだろうか。


 個人的に私の好きなシーンはナイジェル・ヘイバーズ扮するリンジー卿が、バーにシャンパンを入れたグラス置いて、その上を飛んでみせるというシーンだ。シャンパングラスにかすかに触れ、中のシャンパンがこぼれるが、決して倒れたりしない。何もシャンパンを置かなくてもと思ってしまうわけだが、このあたりのこだわりが貴族らしくて非常に気に入っている。

 こういう感覚はアメリカ人では出ないのではないだろうか。いかにもイギリス的なシーンだった。
 監督のヒュー・ハドソンはその後パッとしないが、日本だけでヒットした『小さな恋のメロディ』で注目された製作者のデヴィッド・パットナムは、「キリング・フィールド」など堅実に名作を世に送り出し、名プロデューサーの名を欲しいままにしている。

炎のランナー」が私の英国好きを決定的にしたわけだが、今ではもはやこういう世界が英国の真の姿だとはさすがに思ってはいない。


田舎にはこの映画に近いような世界が辛うじて残っているが、都会なんてゴミが散乱してるし、地下鉄の吊り球(チューブは輪ではなく球なんですよね、なぜか)にコンドームがぶら下がっていた時は情けないものがあった。これを見て『どこが伝統と格式の街やねん!』と怒ってはいけない。これもまた愛すべきロンドンの一面なのだ。


 なお、この映画は英国の様々な場所で撮影されている。まず、冒頭で青年達が競争するシーンはウィンザーにあるイートン校、例のリンジー卿がバーを飛び越えるシーンはバッキンガムシャーのバーン・ホール、パリの英国大使館のパーティのシーンはリバプールのタウン・ホール、パリのオリンピック競技場はイギリスのベビングトン競技場で撮影された。
また、この映画の象徴とも言える冒頭とラストのシーンで若者達が走るのはスコットランドのウエスト・サンズ・ビーチである。