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【映画で歴史をお勉強】アラビアのロレンス

 

前回、紹介した『バハールの涙』と全く無関係ではない人物を描いた作品を解説します。
第一次世界大戦後の先勝国によるオスマン・トルコ分割によってクルド人も分断されてしまったわけですから。

 『アラビアのロレンス』はアラブ国民から英雄とうたわれた英国人将校T・E・ロレンスの波乱の半生を描いたデヴィッド・リーン監督の名作。
私のオールタイム・ベストで昔やっていたホームページにUPした文書を転載します。長いですがお付き合いください。

 

 第一次大戦下、オスマン・トルコ支配下にあるアラブは独立を願っていた。そこで英国はオスマン・トルコの背後にいるドイツに対抗するため、アラブの反乱を支援。アラブに詳しい元考古学者のトマス・エドワード・ロレンスを差し向ける。彼はアラブの独立の為に勝利を収めていくが、所詮英国に利用されただけに過ぎない事に気付き、苦悩する。

 前半、ベドウィンに認められ、アラブの白い衣装に身を包みはしゃいで見せる天真爛漫さと後半英国とアラブとの板挟みで絶望して次第に精神の均衡を失っていく所との対比が圧巻だ。

シェイクスピアやエミリ・ブロンテ作品の登場人物以外で英国人の狂気を最初にスクリーン上で体現した英国人は彼が最初ではないだろうか。
シェイクスピアの言葉に「気が狂いたければ英国へ行け」というのがあるが、17世紀のイギリス人がそう言うのだから英国人はほんとに(いい意味で)狂っているのかも知れない。
いつの時代においても芸術というものが内面の狂気やトラウマの発露として育 つことを考え合わせると、音楽(ロックに限ってだが)や演劇という分野において優れた才能が英国で数多く開花するのも頷けるというものだ。

映画のオープニングはいつ見ても見事だ。まず、ロレンスの死因となったバイク事故が映し出されるが、この時に流れているのがあのモーリス・ジャールの壮大なテーマ曲というミス・マッチ。場面は変わってロレンスの葬式、生前のロレンスを知る人々が口々に彼の事を好き勝手に語っている。曰く
「彼は自己顕示欲が強い目立ちたがり屋だった」
「いや、偉大な人物だ」
ここで嫌がおうでもロレンスという人物への興味をかきたてられることとなる。

次に、画面は一気に第一次大戦時のアラブへ。
 カイロのシーンでは、ロレンスがマッチの炎を指で消すという芸当を見せるが、これはロレンスという奇人を熟知していれば、彼がマゾヒストだという事を強調するのに効果的なシーンだというのがわかる。デヴィッド・リーンのこの人物への思い入れは深く、砂漠の雄大な風景の中でロレンスの複雑な人間像を見事に描き出してみせた。通常、景色があまり壮大だと人間ドラマが霞んでしまうものだが、ピーター・オトゥールのずば抜けた演技は、決して砂漠に飲み込まれる事はなかったのだ。

ファイサル国王を演じたもう一人の英国人、「戦場にかける橋」の名優アレック・ギネスも見事だったが、所詮はオトゥールのサポート役に過ぎない。ピーター・オトゥールがこの映画でアカデミー主演男優賞を取れなかったのは疑問であるが、英国人及び若い新人俳優への嫉妬というのもあったのかもしれない。

 私が初めて「アラビアのロレンス」を観たのは中学に上がるか上がらないかという年端もいかぬ少女の頃で、あの浜村淳があまりにも誉めるので期待に胸膨らませてTV放映を観たのだが、子供である私には歴史的な背景などさっぱりわからなかった。

今では毎日のようにニュースでパレスチナ問題が語られるが、この映画を観ればパレスチナ問題への理解もさらに深まるに違いない。
 この作品をきっかけにロレンスに興味を抱いたという人が圧倒的に多いが(最近では神坂智子の「T・E・ロレンス」でという人も増えている)、ロレンス自身の著作「知恵の七柱」からロレンスに興味を持ったという少数派の人に言わせると、映画が「伝記」としては非常におそまつで、史実との違いを並べて糾弾する人と映画は映画として評価しようとする独立評価派とに分かれるそうだ。映画でロレンスを知った私は映画を伝記と考える事自体ナンセンスだと思うわけだが、ロレンスの弟も上記の糾弾派の一人で、出来上がった映画に対しては「自分の知っている兄とは全然違う」と強い不満をもらしたそうだ。

 しかし、この映画や、砂漠の反乱の戦記でもあるロレンス自身の回想録「知恵の七柱」を最も非難するのはアラブ側であり、彼らに言わせると<反乱>は、アラブにとってアラブの目標を達成するため、アラブによって行われたアラブの出来事であり、英国は技術や資金のみを提供した補佐役に過ぎないというのだ。彼らは西洋の著者達がロレンスを<<アラブの反乱>の指導者、もしくは守護神、推進力として描くのを困惑し、同時に驚きあきれかえっていた。
ヨルダンのアブドゥラ王は、「回顧録」の中で英仏の将校達の中には、ロレンスよりはるかにアラブの為に尽くした 人物が数多くいると主張している。

ロレンスの名を広めた仕掛け人は、アメリカ人記者ローウェル・トーマスであり、彼は後半映画にも登場する。また、さもロレンスだけがアラブ服を着ていたように思われがちだが、アラブ服の方が砂漠では動きやすいということもあり、結構多くの将校がアラブ服を着用していたらしい。

 しかし、私は<砂漠の反乱の指導者>としてのロレンスよりも人間としてのロレンスにいたく興味を惹かれるのである。性格は内気であったと言われるが、一方で彼は相当な自身家であり、傍若無人で目立つことが大好きだったと言われる。写真の技術が未熟な当時において彼ほど夥しい数の写真が残っている人物も珍しいし、マスコミに追われるのを嫌った割に、彼の記録映画が公開された時には、わざわざ映画館まで足を運ぶ姿が目撃されている。

 ウィンストン・チャーチル首相(当時植民相)は「私は彼を、わが現代存命中の最大の傑物の一人だと思う。こんな人は他にいない。われわれの要望如何にかかわらず今後二度と再び彼のような人間は出ないのではないか・・」と語っているが、これも表層的なものに過ぎない。

 アーノルド・トインビーは「ロレンスは実際カメレオンのようであった。行動してない時の彼は一見いかにも取るに足りない人間のように見えた。背は平均以下であったし、髪はネズミ色、目は灰色であった。しかし、彼が行動に移った瞬間、目は青く輝き、髪はきらきらと金色に光り、背丈も相手を見降ろすがごとく高く見えた」と彼の恐るべき魔性の魅力について語っているが、ロレンスの人気はそのミステリアスな内面によるものかもしれない。

 トマス・エドワード・ロレンスは、1888年、あのヒトラーが生まれる一年前にウェールズの田舎町に生を受けた。父親の名前はトマス・チャップマン卿。つまり彼は私生児だったのだ。熱心なクリスチャンでありながら不倫の恋で父と結ばれた母親に対する嫌悪感とキリスト教への不信感から女性不信へと陥ってしまい生涯独身を貫いた。

 ロレンスゲイ説はこんな所からきているわけだが、これは当っている部分もあるが、彼の場合あくまでも精神的な繋がりを重要視し、肉体的な接触を嫌ったようである。
デヴィッド・リーンによるとロレンスがトルコの将軍に性的な関係を強いられたのは事実だそうだ。また、彼のアラブ少年やアリーに寄せる熱い友情、水不足の中でわざわざ髭を剃ったりするのも彼が同性愛者であることをほのめかしている。
これはアラブ経験者の私が現地で聞いたことだが、アラブ人の男の多くは髭をたくわえ、髭のない男はまずオカマだと思って間違いないとか。コーランは同性愛を一応禁じているものの、男女が自由に交際できないこともあって、結婚までの男同士の愛情は黙認状態、回りも見て見ぬ振りを決め込んでいるのだそうだ。

日本人でも西洋人でも柔な外見をしている方は髭をたくわえていった方が無難で、アラブに詳しいロレンスならこんなことは百も承知のはず。実際のロレンスのアラブ時代の写真を見てもいつもこざっぱりとしている。また、ロレンスはのちにヒッチコックの「救命艇」という作品に出演することとなるタルラ・バンクヘットという女優のファンで、彼女の舞台によく通ったという。ちなみにこのタルラはバイセクシュアルであった。

 精神的なゲイとはいっても基本的に性欲に乏しい彼が夢中になったのが学問と書物だった。幼い頃から頭脳明晰で特待生としてオックスフォード大学に進み考古学を志す。卒業後、中東地域で発掘隊に加わるが、1914年、第一次大戦が勃発すると軍隊に入り、アラビアに関する知識を買われて「アラブの反乱」にベドウィンの指導者として参加するのである。

アラビアは元々ベドウィンの土地であり、定住しない彼らには昔から国境という概念はなかった。しかし、彼らはオスマン・トルコの圧政に苦しめられており、イギリスはそこに目を付けた。第一次世界大戦中、各 国は戦争を有利に導くため、彼らに独立というエサをちらつかせて敵であるドイツ側のトルコと闘わせる為にベドウィンの協力を得たのだ。その一方でユダヤ人の資金協力と引き換えにイスラエルにおけるユダヤ民族の郷土建設への協力を宣言する。 英国の今世紀最大の失敗といわれる多重外交は以下の通りだ。

フセイン・マクマホン協定(1915) - アラブ人の独立国家という報酬に対してトルコ領内のアラブ人が独立運動を起こさせた。
サイクス・ピコ協定(1916) - イギリス・フランス・ロシアによるトルコ領分割(英=ヨルダン・仏=シリア・露=グルジアアルメニア)に加えてパレスチナを国際管理地とする。
バルフォア宣言(1917) - ユダヤ人の独立国家建設を公約に掲げ、アメリカ・イギリス在住のユダヤ人の資金援助を求める。

 イギリスがパレスチナ地方に関して結んだ三つの秘密協定は、相互に矛盾するもので、これが、後のアラブ人とユダヤ人の民族抗争(パレスチナ問題)の発端となるわけだが、ヨーロッパ諸国やアメリカがイスラエルに肩入れするのは、世界中に散らばるユダヤ系への配慮もあるのだろうが、自分達がイスラエルに建国を認めたという負い目があるのかもしれない。

ちなみに製作者のサム・スピーゲルは、ナチス時代のドイツからアメリカに脱出したユダヤ人でその前には兄がシオニストであった為にパレスチナにいた。スピーゲルは厳格なユダヤ教シオニズム運動についていけずにヨーロッパに移住したという複雑な経歴の持ち主で、中東の歴史を変えたロレンスの「砂漠の叛乱」を描いたこの作品には特に思い入れがあったようだ。
さらに付け加えさせてもらうと監督デヴィッド・リーンの師が劇作家のノエル・カワードであり、このカワードもゲイで、トマス・エドワード・ロレンス、つまり実在の<アラビアのロレンス>と親しかった。何とも奇妙な巡り合わせではある。  


1918年、戦争が終わるとロレンスはその後のアラブの運命を予想し、良心の呵責に苦しめられ、アラブ独立の為に一人奮闘するけれども結局実らないで終わる。この辺りはレイフ・ファインズ主演の「ロレンス1918/その後のアラビアのロレンス」というTV映画に詳しく描かれている。その後、失意のロレンスはT・E・ショーと名乗り、一兵卒として空軍に入隊する。

 1935年、10年間の兵役を終えた彼のところに、当時台頭してきたヒトラーとの交渉を依頼してきた人物がいた。ロレンスはその人物への変電の帰り、愛用のオートバイを猛スピードで走らせ、見通しの悪い道にいた2人の人物を避けようとしてオートバイはコントロールを失い、ロレンスは地面に叩き付けられ、そのまま帰らぬ人となった。
イギリスはその国民と歴史に対する彼の功績を称え、ロンドンのセント・ポール寺院に彼の胸像を建てた。
 ちなみにスピルバーグ監督はこの「ロレンス1918」を見て「シンドラーのリスト」のアーモン・ゲート役にレイフ・ファインズを起用。スピルバーグ監督の「アラビアのロレンス」への思い入れは深く、完全版リリースに尽力したのも彼である。