私の体は音楽と映画と旅でできている

タイトルのまんまのブログ。中年主婦が映画、音楽、旅行について思いつくままに書いてます。

【オールタイム・ベスト】グラディエーター

昨日紹介した『ストア哲学入門』のストア派を代表する人物マルクス・アウレリウスが登場する作品がこの『グラディエーター』です。

 

私のオールタイム・ベストに入る秀作で、以前、ホームページにUPした映画評を転載します。

 

監督:リドリー・スコット 脚本:David H. Franzoni
出演:ラッセル・クロウホアキン・フェニックス/オリバー・リード/リチャード・ハリスデレク・ジャコビ/ ジェイモン・ハンスゥ/コニー・ニールセン

2000年度アカデミー作品賞受賞!

 

 

 

グラディエーター』DVDは本編150分+特典映像120分、合計270分という実に見応えのあるものですが、 リドリー・スコットの音声解説付きヴァージョン見て遊んでたりしたら1日が終わってしまったものでした。

 

未公開映像ですが、どれもカットしても特にさしさわりないようなものばかり でしたが、コモドゥスが父の像に切りつけた後、泣きながらそれを抱きしめるシーンは彼の屈折した 愛情がよく出ていたと思うのでカットするのはつくづく惜しいと思いました。 リドリー・スコットも残したかったと言ってたし。 この未公開映像のカットとシークエンスを繋げたフィルムが収録されているのですが、これがまた素晴らしいんですよね。

 

メイキングではラッセル・クロウがトラを前に困った顔をしているのが印象的。私予告編で見た時、あのトラ完全にCGだと思ったのですが、実際のトラの映像とラッセル・クロウの シーンを合成させたために違和感が出てるんですね。
他に『グラディエーターの世界』という50分ものドキュメンタリーでは剣闘士の世界を勉強させて くれるし、ハンス・ジマーの音楽解説もあるし、このDVDでこの映画に関する全てが学べてしまうと言っても過言ではないでしょう。


リドリー・スコットの音声解説バージョンでは、一つ一つの画面をどのような意図で撮ったかなど 解説をしてくれますが、こういうの見ると、彼が本当に全力投球をしてこの映画に取り組んだんだな というのが伝わってきて感動的です。

 

さて、本編ですが、映画館鑑賞時とDVDでの再見とでこれほど受ける印象が違ってくる映画も 珍しい。映画館ではどちらかといえば、臨場的な戦闘シーンの迫力を楽しみ、人間ドラマはそれに付随 するものといった印象を受けましたが、TVの小さな画面でこそ見えてくるものってあるんですよね。
今回、じっくりとこの映画に描かれる人間の心の機微というものに気付かせていただきました。 以下、私の全身全霊を傾けた感想であります。

 

どうも映画界というものはスピルバーグ作品、『タイタニック』を引き合いに出すまでもなく、 大衆受けして、興行成績が良かった作品に対し<芸術作品>の称号を与えることに抵抗を覚えているように思えます。

しかし、よく考えて欲しい。クラシックの名作、おそらく誰もが知っているモーツァルトやベート ーベンの数々の曲は世界中の不特定多数の人に愛されているが、立派な芸術作品として認知されている。 絵の世界ではルノワールダ・ヴィンチしかり。

 

しかし、映画界では大衆に支持された映画は、映画ヲタクや評論家からワン・ランク低く見られる傾向 にある。また、所詮CGで作られたものと見下してかかる傾向にあるようだが、『風と共に去りぬ』 などでは背景に絵を合成した。この技術は感嘆の声で迎えられたのにCGという新しい技術だと どうして認められないのだろう。


CGでコロセウムや豪華客船や恐竜を蘇らせるのもまた一種の 芸術ではないのか。それの何がいけない? デジタルと人間の職人技との差異と言ってしまえば それまでだが、あの特殊なCGを扱うのも結局は人間のセンスがものを言う。


話が陳腐だという者もいるがそれならオペラのストーリーなどはこの作品よりはるかに単純な ものがいくらでもある。実際この映画のストーリーは至ってオペラ的、歌舞伎的であり、 それに時折挿入される抽象的なカットなど斬新で洗練された映像は、従来のこの手のスペクタクル 映画にはない新たな感性がある。


結論から言うと『グラディエーター』は豪華絢爛にして繊細な総合芸術である。 それも『アラビアのロレンス』に勝るとも劣らない卓越したストーリー展開で見るものをその世界にぐいぐいと引き込んでいく力を持っている。

 

私は絵画が好きだが、『グラディエーター』の映像は至って絵画的だと思った。 優れた絵画は100の言葉よりも雄弁に情景や登場人物の内面を語る。

この映画のワン・シーン、ワン・ショットに深いメッセージが込められているのである。 まず、マキシマスが先祖の像に祈りを捧げるシーンではロウソクの光がマキシマスの敬虔な表情を照らし出す。今にも燃え尽きそうな短いロウソクの炎は「残された生命の象徴」だ。 ロウソクは西洋では神性と人性を象徴する宗教的なシンボルだそうだが、 人の命はいたって軽かった古代ローマであえて生と死について語ってみせようという監督の意図が現われたシーンなのである。

 

冒頭、マキシマスが麦穂に触れるシーンが登場するが、私はこれは彼の持つ牧歌的な心象風景 を映し出しているのかと思ったものだが、リドリー・スコットの解説を聞いて驚いた。 これは死の世界へと繋がる道だというのだ。
そして断片的に現れる妻子の映像も天国の世界である。このように映画は最初から死の匂いが立ちこめている。

 

それは何もマキシマスが剣闘士だからだけではない。彼は妻子の死に立ち会った時点で既に彼の心はこの世にない。 彼の幻想の中で幾度となく現れる故郷の家の門、それは天国への扉。彼の心は既にその前にいる。 後はそれを開くだけだが、ラスト、ついにその死の静寂が訪れる。何と言う見事な円環だろうか。
80年代のリドリー・スコットの映像は美しいがどこか単調で温かみに欠けていた。しかし、この 『グラディエーター』では人間の体温さえ感じさせる臨場感と洗練が加わった様に思う。 光の当て方などさながらレンブラントルーベンスの絵画を思わせ、光と影の交差は神秘的で奥行き のある雰囲気を醸し出している。

 

ルネサンス絵画にキアロスクーロという暗闇の中の対象物に光を当てて浮かび上がらせる独特の 明暗法があるが、レンブラントはよくこれを多用したことで知られている。これであらゆる人間が その明るさとともに秘めている「心の闇」を表現しようとしたわけである。ゆえにとてもドラマチックなわけだが、『グラディエーター』にもこれが効果的に使用されていて、これはそのままコモドゥスの 複雑な内面を照射するのにピッタリだったと思う。

 

例えば反乱が皇帝の知るところとなり、マキシマスが捕らえられた翌日の朝。バルコニーに立つコモドゥス、 その背景にはローマの朝焼けが映し出されるが、どこか清々しさよりももの悲しさの方が際立つ。 実際コモドゥスは反乱を未然に防ぐことに成功したというのに少しも嬉しそうではない。 この背景は彼の複雑な心象風景をよく現していたと思う。 このようにワン・カット、ワン・ショットに深い隠し味があり、海外の評論家はそういう監督が伝えたいメッセージをしっかり読み取って高い評価を与えたのだと私は思う。

 

さて、次は人物描写について語らせていただく。 この作品の素晴らしさはキャラクターの描きこみの見事さにあると思う。 いくらアクション・シーンに迫力があって映像が見事でも人物描写がおろそかではアカデミー 協会は見向きもしないだろう。

私がアイルランドの田舎のシネコンで『グラディエーター』を見た時、映像と戦闘シーンの 素晴らしさに唸らされたわけだが、それと同時に、マキシマスの物静かな雰囲気が妙に印象に残った。


同じ復讐劇でありながらチャールトン・ヘストンベン・ハーみたいに威圧的な雰囲気を発散して いるわけでも、ギラギラと憎悪をたぎらせているわけでもない。それは先の記事でも語ったように マキシマスが生への執着を捨てた世捨て人であると同時に彼が元々大地をこよなく愛する牧歌的人間 だからだろう。
勇猛果敢な将軍でありながら信仰心に厚い農夫でもあるというキャラクターは新鮮だった。マキシマスが闘う前に必ず土を手にするが、これは農夫である彼への土への思い入れを 表しているという。

 

マキシマスのキャラクターもユニークだが、一筋縄ではいかないのが、やはりコモドゥスだろう。 彼は一面的な悪役ではない。私は何度見ても彼が憎めないのだ。 彼は国民を愛し、父皇帝を慕い、愛されたいと願い、その父の信頼を受けているマキシマスにも父と同じように自分に忠誠を誓って欲しかっただけだと思う。

 

確かに凡庸な息子かもしれないが、皇帝ネロやあのカリギュラのように特に残虐なゲームに興じる わけでもない。コロセウムでの残酷な死の見世物はあの時代では当たり前である。 元老院は国そっちのけで権謀術数に明け暮れていると批判してみせたり、結構物事をわかって いる部分もある。
しかし、彼の言動の何もかもが裏目に出るのが何とも気の毒で仕方がなかった。 皇帝は、そんな彼を理解することができず、ローマを憂えるあまりに彼に過剰なものを求め過ぎたのではないかと思う。

 

それにしても、皇帝が『マキシマスが跡を継ぐのならコモドゥスも納得できるだろう』と一人合点 して息子にわざわざそれを伝えるところでは、普段からコモドゥスがマキシマスに一目置いて、羨望 の眼差しで見ていたことが読み取れる。
たとえば彼がマキシマスの悪し様にののしっていたら、 皇帝もマキシマスの身を案じ、先にコモドゥスに伝えたりせず、もう少し慎重になっただろう。 マキシマスも後半、コモドゥスに対し憎悪よりも哀れみを感じているような気がした。 もしかすると2人は本当に仲良く兄弟のように育ったのかもしれないと深読みしてしまうのだ。

そして、父皇帝に『マキシマスに比べてお前ときたら・・』と繰り返される内に、マキシマスに対し 憧憬と愛情とはまた別のところで嫉妬と憎しみの感情が芽生えてきたのかもしれないと深読みして しまう。つまり可愛さ余って憎さ百倍の典型というわけだ。

 

さて、姉のルッシラだが、彼女は威厳があり、でしゃばり過ぎるでもなし、マキシマスとの メロドラマの描写もストーリーの妨げにならない程度に留めていて好感が持てた。
ジュバを演じたジェイモン・ハンスウは、残念ながら今回あまり印象に残らなかったが、ラストで マキシマスの先祖の像を埋めるシーンと『自由を得たな』というセリフが印象的。


そして、英国勢、皇帝役のリチャード・ハリス、奴隷商人のオリバー・リード、デレク・ジャコビ は圧倒的な存在感を見せてくれる。

当時、私はアカデミー賞に相応しいかどうか判断しかねたが、 DVDでじっくりと再見してみると映像、ストーリー、音楽、人物描写、脚本、どれを取っても アカデミー賞に相応しい風格と華麗さを兼ね備えた堂々たる傑作であるということに気付いた。
静と動のコントラストがこれほど見事に画面に現われた例を私は他にしらない。

 

魂の奥底から深く激しく湧き上がってくるヴァイブレーショこそが、 あらゆる芸術の感動の根源ではないだろうか。 英国アカデミー賞までもこの作品を選んだのは、実績のあるベテラン英国俳優と英国人監督の 作品であるということ、もう貧乏臭い負け犬の映画はウンザリという気持ちも働いたのかも しれない。