私の体は音楽と映画と旅でできている

タイトルのまんまのブログ。中年主婦が映画、音楽、旅行について思いつくままに書いてます。

【オール・タイム・ベスト】クンドゥン

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公開時、某所にUPした文章を転載します。
チベット関係の映画といえばブラピの『セブン・イヤーズ・イン・チベット』が有名ですが、私は何と言ってもマーティン・スコセッシの『クンドゥン』を押します。

1937年、チベットのある寒村に長旅を続ける数名の高僧が訪れた。彼らの目的は4年前に逝去したダライ・ラマ13世の生まれ変わりを探し当てること。そこでハモという名の幼子に出会った一行は、生前ダライ・ラマが愛用していた遺品とそうでないものを彼の前に2種類ずつ並べた。 嬉々としてそのうちの一方を取り上げていくハモを見ていた一人の高僧がやがて尊兄と畏怖の念を込めてその幼子に呼びかけた。「法王(クンドゥン)」と。

その瞬間、一つの運命が生まれようとしていた。チベットの最高指導者として現在も生き続けるダライ・ラマ14世の幼少から真の人間的成長を遂げて成人へと至る人生を感動的に描く。

 

スコセッシの映画は「タクシー・ドライバー」にしろ「最後の誘惑」にしろ、独特のクセというものがあるのですが、この「クンドゥン」はダライ・ラマ14世の数奇な半生を描くことに徹して、スコセッシのカラーを極力控えた不思議な透明感と聖性に満ちていたように思います。それは素人の亡命チベット人俳優の持つ独特の空気に負うところが大きいと思います。

 

文明人、特に西洋社会ではステイタスや財産などが重要視され、野心を持つことは必ずしも悪い事ではないけど、チベットでは傲慢は罪。
最初、選ばれた少年ハモは、自分が最高地位にあると知るや横柄にふるまおうとしますが、教育係に諭され、次第に傲慢の感情を捨て、慈愛と寛容の精神を身につけた"クンドゥン"へと成長していく過程が共感タップリに描かれています。
誰もが最初から偉大な指導者であるわけではない。 やはり教育の賜物だろうと感心させられました。 この少年ダライ・ラマ役の子役達が実に素晴らしい。


セブン・イヤーズ・イン・チベット」のダライ・ラマ役の少年も素晴らしく、ブラピよりもはるかに印象に残ったものです。

ともすれば西洋人の目から見た安っぽい東洋趣味映画で終わりかねないところ、ダライ・ラマや回りの人間の視点からと描かれているせいか、今回はその難を逃れ、美しい風景も相俟って芸術へと昇華されているのです。
中国の侵攻によってチベットの民が虐殺されていると知った時の彼の苦しみ・・「セブン・イヤーズ・イン・チベット」のような派手な戦闘は極力抑え、民衆が迫害される光景を断片的に映し出し、彼の白昼夢の中で累々と横たわる僧侶達の屍が彼のとてつもない苦悩を象徴しているようで胸が痛みました。

そして、 チベットにいては命の保証はできないと知らされたダライ・ラマはついにインドへの亡命を決意。

 

「行かないでくれ」という民衆の声に一瞬動揺するも、自分が死んではチベット国民の心の支えが失われてしまうと、後ろ髪を引かれる思いで出発するのです。農夫に身をやつし、山を越え、谷を越え、ひたすら国境に向かって歩く姿は痛々しい限りですが、そんな自分の運命を呪うだとか、誰かを憎むといったネガティブな感情とは無縁な、彼の姿にはひれ伏したくなるほどでした。

ラスト、ようやく辿り着いた国境検問所でインド人の役人に「念のため、あなたのお名前をお尋ねしたいのですが」と聞かれたダライ・ラマが、「私はただの男、仏に仕える一人の僧だ。私は水面に映る月の影。善を行い、自己に目覚める努力をしている」と答えるところでは涙が止まりませんでした。